事件の概要
1966(昭和41)年、静岡県清水市のみそ製造業の専務の自宅が放火され、焼け跡から死体で発見された一家4人には刺し傷がありました。集金袋が行方不明となっており、現場では雨ガッパと小刀が見つかりました。
事件当時が給料日であり、現金があったことを知っている内部に詳しいものの犯行と警察は見ており、また被害者の専務が柔道2段の巨漢であることから、これだけの犯行ができるのは誰かとの予断と偏見にもとづいて、元プロボクサーでみそ工場で働いていた袴田巌さんが、事件直後、左手中指などに負傷をしていたこと(実際に消火活動で負傷)を理由に逮捕されました。袴田さんは、当初は無実を訴えていましたが、警察は連日12時間(最高16時間)にも及ぶ長時間の取調べをおこない、またアルコール中毒の患者を留置所の同じ房に入れて騒がせて睡眠を妨げるなどをおこない、自白を強要し、45通の「自白」調書を作成しました。
警察は、工場内の寮に住んでいた袴田さんが、深夜に専務宅に侵入し、4人を殺害して工場に戻り、現金を隠した後に放火したとしました。
■裁判の経過
静岡地裁では、袴田さんは「自白は強要されたものである」と無実を主張しました。
裁判では、「自白」調書が変転を繰り返ししていることが明らかになり、警察の自白強要を認めて、44通の調書を違法として採用しませんでした。また、奪われた現金の行方は不明であり、「自白」の殺害方法と実際の死亡状況が一致せず、出入りしたとされる裏木戸には鍵がかかっており、出入りは不可能でした。
また、警察は袴田さんの部屋から押収したパジャマにごく微量の血痕が付着していたことなどから、袴田さんは、このパジャマを着用して犯行に及んだものと主張しました。ところが、1審公判中に(事件から1年2カ月後)の1967年8月に味噌タンクの中から5点の衣類が発見されました。検察は、当初は犯行着衣をパジャマとしましたが、5点の衣類が犯行が犯行着衣であると主張を変更しました。しかし、これは袴田さんには小さくて身につけることが出来ませんでしたが、警察は「縮んだ」「袴田が太った」などと強弁した。
ところが、静岡地裁は、残りの1通の調書を採用して、袴田さんに死刑判決を言い渡しました。その後、東京高裁、最高裁で有罪、1980年に死刑判決が確定しました。
■再審を求めて
袴田さんは東京拘置所に収監されているが、死刑確定後は拘禁性ノイローゼとなり、精神に異常をきたし、肉親や弁護団との面会も困難になっています。
1981年に再審を請求し、日弁連が再審を支援し、プロボクサーなどにも支援が広がりました。2007年には、1審の裁判官であった熊本典道氏が、「自分は無罪と判断したが、他の二人の裁判官を説得出来ずに、2対1の多数決で有罪となった」と明かし、大きな反響がありました。熊本氏は「主任裁判官として判決文を作成したが、悔いが残り、裁判官を辞めざるをえなかった」と述べました。
しかし、2008年最高裁は再審請求を棄却しました。現在、弁護団は第2次再審請求を静岡地裁に申し立てています。
■DNA鑑定で袴田さんの無実明らかに
原審の裁判では、起訴当時、犯行着衣はパジャマであるとした自白に沿う主張がなされていました。ところが、起訴から約1年後にもなって、事件直後に捜索が実施されていた味噌タンクの底部から、麻袋に入れられた衣類5点(「5点の衣類」)が発見され、公判途中で、犯行着衣が「パジャマ」から「5点の衣類」に変更されるという異常な経過をたどって死刑判決が確定したものでした。
しかし、第二次再審でのこれまでの審理で、この5点の衣類は袴田さんのものではないことが、新たな事実で明らかになったばかりか、事件とは無関係なものであることが明らかになりました。5点の衣類に付着していた血痕をDNA型鑑定したところ、袴田さんに由来するものはもとより、被害者に由来するものも出なかったのです。この事実は、5点の衣類が警察によるねつ造であったことを意味します。元もと5点の衣類は自白にもありません。
三者協議では、2013年12月2日までに弁護側、検察側双方が最終意見書を裁判所に提出し、12月16日に結審。
■静岡地裁で再審開始、東京高裁が再審取り消し
2014年3月27日、静岡地裁は、袴田さんの訴えを認め、再審開始を決定しました。あわせて、刑の執行停止、拘置の取り消しを決定しました。しかし、2018年6月11日、東京高裁は再審開始決定を取り消し、再審を認めない不当決定を出しました。
守る会の連絡先/署名等
【連絡先】
日本国民救援会静岡県本部
〒420-0037 静岡県静岡市人宿町2-2-2
【署名】
(最高裁宛て)東京高裁不当決定を破棄し早期再審開始を求める要請書